京都比良山岳会
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活動記録 > 2005年
[No.2715] 夏山合宿:サマーキャンプ

【日程】2005年7月23日(土)〜24日(日)
【参加者】8名
【天候】
23日 晴れ一時雨のち曇り、24日 晴 れ
【行程】
23日 8:45近鉄西大寺南口集合、近鉄西大寺前近商(買出し)〜13:16三之公川林道終点、休憩所にて昼食、テント設営〜16:05付近散策〜ヒウラ谷〜17:16テント着18:00夕食 24日 6:00起床、朝食、テント撤収〜8:05三之公川林道終点〜8:45明神滝〜9:57三之公宮跡10:10出発〜11:30林道終点、休憩所下で昼食〜13:20三之公川林道終点出発〜14:30入之波温泉出発

【記録】48期 M.K.
23日 西大寺の買出しより、楽しいキャンプが始まりました。
三之公分岐より砂利道になりトガサワラ原生林(マツ科)・民家を見て、林道終点へ。昼食後、三之公川河原にてテント設営。沢スジに沿っての散策。岩場に咲くイワタバコ・サツキ、糸のように流れる五段の滝、オタマジャクシ・ヘビ(赤い斑点)を見たり、楽しい水遊びに時間が直ぐにたつ。18:00よりの夕食はてんぷらで、エンドレスになり20:30寝床。静けさの中で川音とカジカの鳴き声がひびいていました。
24日 6:00起床、朝よりヒル対策にみんな真剣です。8:05林道終点出発。苔が美しい(ヒノキゴケ・スギゴケ)Nさん説明のナカグロモリノカサ・アカダケのキノコ、イワタバコ・ハエトリソウの花、8:45明神滝に着く。一直線の滝、ギボウシ・スカシユリが咲き、スズメバチの大きな巣、滝壺は緑、広い場所でいつまでいても見飽きない。二の滝下の方に見える。9:52カクシ平分岐、2本の大きなトチノキ。この辺よりヒルが頭をもたげにぎやかになる。9:57三之公行宮跡、南北朝時代、統一の後南朝の再興を期して都より尊義王と二人の皇子(白天王・忠義王)が隠し平へと記してある。バイケイソウがひっそりと咲く。10:10引き返す。11:30昼食。入之波温泉は大勢の人で、あわてての入浴になり、道の駅で大宇陀の野菜、果物をもとめ楽しい2日間の締めくくりになりました。
初めてのテントでなにも分からず、皆様にお世話になり、おかげ様で楽しいキャンプができた事お礼申します。

【所感】25期 D.A.
当会にはサマーキャンプの又はファミリーキャンプの伝統が少なからずある。私もかつて同種の企画に参加させて頂いて以来子供が小さいときはファミリーキャンプと言う形で続けて来た。子供が大きくなってからは止めようと思ったのだが、テント生活をした事の無い会員向けには最適の企画なのでサマーキャンプと名前を換え合宿として続けている、と言うか河原でキャンプをするのは純粋に楽しいし気持がよいのだ。何時もは芦生近辺でやるのだが、新しい場所を求めて6月に森さんと此処を偵察に来た時、其の自然環境と素晴らしい幕営地に感激し今年は此処に決めた。調べてみると三の公川林道終点から上部は水源地を守る会が幕営禁止にしている。本当は上部の美しい所で張りたかったのだが自然を極力破壊しない事も我々山岳会が守らねばならない大事な事なので、下流の増水してもすぐに逃げられる所を選びテントを張った。食事はOさんの発案で朝昼晩共同にし夜は久々に天ぷらを作る事にした、普段油こい物は苦手な私だがこれはうまかった。冷たい水の流れ、涼しい風、少々雨が降ってもタープテントが有る、少しお酒が入り横になってうとうとしているのが気持がいい。この広い河原は山腹に林道を造るときの土砂が流されて出来た物ではないかと思われる今も林道が崩れ土砂の供給は続いているようだ、それでも此処の渓谷は美しい。車から降りてすぐの所にテントを張っているのだが何か神秘的な物を感じる、Yさんが書いておられる様に、此処は特別な場所なのだろう。芦生ほど手つかずの自然が残っているわけではないが、さらに山が大きく深い。三ノ公の御座所かくし平はキャンプ地よりさらに奥,谷沿いの切り立た崖の巻き道を登って行かねばならない「ほんとにこんなとこに住んではったの?」帰りに入之波温泉のおばさんに聞いたら「でも良い所でしょ」と返された、やはり贔屓なんだろうか。来年は何所にしようか?Oさんとは比良奥の深の河原でFくんと宴会しようと言ってたんだが、笊が岳の広河原でキャンプになるかもしれない、皆さんちょっと遠いけど其の時はよろしく。

【感想】25期 I.A.
 久しぶりのサマーキャンプでした。心配していた台風も大丈夫。しかも集合が我が家から数分のところ・・・と言えば、もう参加しかないと思いました。
 沢の偵察にでかけずテントキ−パ−になったN田・I藤・O道・A木の4人の内3人は、ほんとにテントキーパ−。O道さんは、付近を探検。探検中に見つけた鹿の頭の白骨があるよ・・の声に三人も参加。川には2Oセンチほどの魚も泳いでおり、Hさんだったら釣って天ぷらの一品にするだろうなと思った。水は透明に澄んではいるが緑の苔のような藻が発生しており、そのままで飲むには不適当な様子でこの綺麗な景色に反して・・・と少し複雑な気分。
 食事は、食当のNさんのおいしい献立のおかげで、全て全員の胃袋に納まりました。有難うございました。
テンプラ専用のお鍋でないためか、(お鍋の薄さのせいか)カキアゲの後、お鍋の底になんかカリカリとした物がお箸にさわります。なにかしら・・・と思ってあげてみたら、なんとそれは、天カスらしき物体。テンプラと一緒に引き上げておいておいたら、天丼にいれる人やおにぎりと一緒に天むすにする人など、みんな楽しんでおられたようでした。  翌日、いよいよかくれ平へ。ガイドブックにヤマヒル注意!!と載っていたので、キンチョ−ルを靴・ズボン・靴下にしっかりとかけて歩きだす。かけなかったY・Oご両人は、女性陣の身代わりに、ヤマヒルさんに大量に献血をされました。やはり、ヤマヒルには、キンチョ−ルは大変効果がある様に思いました。これから、鈴鹿・奥美濃・北山方面にお出かけの方、ぜひおためしあれ。(以前仕事で関係があったとはいえ、大日本除虫菊の回し者ではありません。)
 登山道の左右にいろんな苔がとてもきれい。そう言えば、昨日、石についた苔を大きな袋を下げた二人の人が採取していたなと思い出す。さすが台高山脈なのでイワタバコも沢山見られる。明神滝の左右にもイワタバコ、オニユリ、ギボウシのお花が咲き、それにスズメバチらしい巣もあり、少ない水量なのにこの迫力。水量がもっとある時はどんな風景かなと思いつつ、マイナスイオンをあびる。再び登山道に戻り、三之公行宮跡へと歩く。ニシキゴロモや花が咲いていないのでイワガラミかツルアジサイかわからなかったが、樹木に沢山からみついていた。春にはシャクナゲ、アケボノツツジ、ミツバツツジが咲き、秋にはイタヤカエデやミズナラ、ブナの紅葉できっと美しいなあと思える山域でした。
 3人の貴人の為とはいえ、食事や身の回りのお世話にこの道を登り下りした川上村の村人たちは、きっと深い愛情と尊敬の御心でお仕えをされていられたように感じました。なにか心ひかれる山域でした。けれどヤマヒルにはあまり好かれたくありませんが・・・。
【感想】44期 N.Y.
 7月23・24日、CLの車と私の車の2台で三之公川の取り付きのところまで行き、大きな河原でのキャンプに参加することができました。
 天気も、台風が太平洋岸をかすめるにしても、場所が場所だけにもっと悪いかなと思ったのですが、一時パラパラときただけで、後はテント設営中と登山中は降りませんでした。結果、本当にすばらしい大自然の中で、そして、秘境のまっただ中で快適なテント生活ができたことに感謝します。
 確か行くときにNさんが吉野川の対岸を見上げて、「あんなもんやない。以前に赤兎山に行くときに山の上の方に本当にさびれた集落があって、ほんとにこんなもんが今の日本にあるんやろかと思たわ。」と言うので、左手の遠くの山の急斜面にへばりついている集落をみんなで車の中から見上げて、「ふーん、そんなとこが今でもあるんやな。」とIさん。みんなで感心しながら話を聞きました。
 八幡平という場所にも1、2軒の古い家が見えましたが、もう人は住んでいないようでした。ここでも、Nさんの「私が見たあの家よりはましや」ということで、実は密かに私は絶対にNさんが見たというその集落を見てみたいと思ったのです。まあ、それはさておき、初日の晩餐のすばらしかったこと。新しいアイディアというか新型のカキアゲ天ぷらの絶妙なこと。なぜかいくらでも箸が出るのです。お酒もおいしい。限界量を超えているのになぜか入ってしまう。なんと言っても、Oさんと火守(ひもり)をしたおかげですっかりふたりは童心に返り、ひさしぶりに顔がほてるくらいの近さでずっと火を囲みました。(おかげでいい写真が一枚とれました!)
 ふとAさんを見るとスプーンで天ぷらの油の鍋の底をカリカリとやっています。私は初めて天ぷらの天かすが底にたまっているのを見ました。(その天かすは翌朝の天むすになったと思いますが・・・)天ぷら本当においしかったです。また、Aさんの炊いてくれたひさしぶりの杉の煙の香りのするご飯を口にできたことは幸せでした。
23日昼過ぎに着いてから、テント設営、タープの設営、竈の設営などをすませて、A夫妻、Kさん、私の4人で主流を少しさかのぼりました。私にはここの河原は何か機械の入った形跡が感じられ、自然の河原がこんなに平べったいはずがないと思えました。約50m近い川幅が上下100m以上にわたって流木一本もないまるで広大なキャンプ場になっていました。自然の摂理からすると異常な風景です。川に青い藻が繁茂しています。水もよごれているようです。
 しばらく遡上していくと、Aさんが見つけた3段の滝を、全景が見えるまで登って4人で鑑賞しました。地図には名前どころか滝の存在さえ記載されていません。「そうか、台高ではこんなに高い滝でも名前が付かないんなら名前の付いている滝はどんなすごいのかな・・・」とみんな思わずハモッてしまいました。左岸の上の方から林道建設のためか土砂がかなりきれいな沢に入り込んでいます。ある場所では落下したブルドーザーがそのまま放置されています。さびたワイヤーが目に付きます。これではこんなに美しい谷も台無しです。帰ってから調べたある情報では、ここの自然を守ろうと林道建設の問題も含めて立ち上がっている人たちがいると言うことなので納得しました。
 がっかりしているところで、Kさんも「ワーッ!」と感動してくれた大きい花を付けたイワタバコを発見することができました。イワタバコの花に会えるには少し時期が過ぎていたのですが、ラッキーでした。
 翌日は三之公川をさかのぼって、全員で尊義親王のいた行宮(あんぐう)跡に行きました。私は実は鈴鹿に行っても、あまにヒルには食われないので、この日もIさんやNさんの「きゃー、ぎゃー」という叫びの合唱団の中をわりと自信を持って?何もヒル対策せずに登っていました。しかし、まあ結果は悲惨なものでした。「あほちやうか」と言われても仕方ないくらいのヒルたちの餌食になってしまいました。
 あそこのヒルはみんな今でも尊義親王たちを守るというDNAを受け継いでいることに気が付きました。ヒルたちに「失礼をば致しました!敬意を表して食傷気味でしょうがA型を謹んで献納致します・・・。」と言いたいというのが本音です。
帰ってから少し気になっていたので調べてみました。
 南北朝時代の話。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、1336年に尊氏と戦って敗れ、吉野に逃れ、尊氏が京都に立てた北朝に対抗して南朝を開いた。しかし、その後対立は先鋭化していくのを見かねた3代将軍義満は1392年に、南北朝の統一を画策し、結果、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して対立の歴史は終わる。
 実は両朝合体時には、後小松天皇の次は南朝から天皇を出し、以後交互に皇位を継承されている。する約束になっていたという。暗約である。しかし、後小松天皇の次は、その子の称光天皇が即位した。このことについても別の血筋の問題が指摘されているが、それはともかく、これに怒った旧南朝の後亀山天皇らが再び吉野に帰り、南朝を復興した。「後」南朝というのはこれ以降のことを言うのだそうだ。
 後南朝は結局はいろいろな手を使った北朝の手によって追い詰められていくが、後亀山天皇の曾孫に、尊義王とその子尊秀王(自天王)、忠義王の3人が川上村の奥深くにいて、最後まで抵抗したという言い伝えが残っている。当時の村人はこの3人を「三人の皇族」という意味で三之公と呼んで敬った結果がそのまま川の名前になったということだ。 系図はこうなっている。
(99代)後亀山天皇―<後南朝@>小倉宮太仁天皇―A万寿寺宮中興天皇(尊義親王)―B北山宮自天皇(尊秀親王), 河内宮(忠義親王)
 私はこの時点で納得してしまいました。キャンプの時にKさんに「さんのこうがわっておもしろい名前やねえ・・・」という会話をしたときに「たぶん三番目の親王とか言う意味ちやうかな?」なんていいかげんなことを言ってしまっていたので、ぜひきちんと調べたかったのです。Kさん、これが「正解」です。
 さて、帰ってから読んだ谷崎潤一郎の「吉野葛」という小説。出だしを紹介します。
彼がかなり勘違いして書いた部分があったりしても、当時の険しかったであろう大台から五色温泉を経由して本沢川を下り、三之公川に入り、明神谷に入ってかくし平までを自分の足で歩いているし、後に入之波温泉の炊き方や彼の理解していた後南朝の意味など、作家というのはすごい。必要ならどんなとこでも行くんや!
  「私が大和の吉野の奥に遊んだのは、すでに二十年ほどまえ、明治も末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―近頃の言葉でいえば「大和アルプス」の地方などへ、何しに出かけていく気になったか。―この話は先ずその因縁から説く必要がある。
 読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」あるいは「自天皇様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天皇、―後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮という方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して伝説ではない。ごくあらましを掻い摘まんでいうと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀という者が大覚寺統の親王万寿寺宮のを奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に立て籠もった事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀伊、紀伊から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天皇と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十有余年も神璽を擁していたという。それが赤松家の遺臣に欺かれて、お二方の宮は討たれ給い、遂に全く大覚寺統のおん末の絶えさせられたのが長禄元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。
 遠い祖先から南朝方に無二のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝といえばこの自天皇までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に『太平記』を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天皇の御事蹟を中心に歴史小説を組み立ててみたい、―と、そういう計劃を早くから抱いていた。
 川上の荘の口碑を集めた或る書物に依ると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃を恐れて、今の大台ケ原山の麓の入の波から、伊勢の国境の大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷という渓合いに移り、そこに王の御殿を建て、神璽はとある岩窟の中に匿していたという。また、『上月記』、『赤松記』等の記す所では、予め偽って南帝に降っていた間島彦太郎以下三十人の赤松家の残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を越し、一手は大河内自天皇御所を襲い、一手は神の谷の将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおん自ら太刀を振って防がれたけれども、遂に賊のために斃れ給い、賊は王の御首と神璽を奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰峠に行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中に一と夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、たちまちそれを見附けだして奪い返したという。以上の事柄は書物に依って多少の相違はあるのだが、『南山巡狩録』、『南方紀伝』、『桜雲記』、『十津川の記』等にも皆載っているし、殊に『上月記』や『赤松記』は当時の実戦者が老後に自ら書き遺したものか、あるいはその子孫の手になる記録であって、疑う余地はないのである。一書に依ると、王のお歳は十八歳であったといわれる。また、嘉吉の乱に一旦滅亡した赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子を弑いて、神璽を京へ取り戻した功績に報いたのであった。」
 ここまで読んで、私は今回ヒルにかまれた血がまるで今までにないほどの大量の血で靴の中が真っ赤になってしまったことを思い出して、ぞっとしてしまいました。あれは自天王の雪の中で憤死ゆえの生首から吹き上げた血を暗示していたのではないかと夜のお話の時に怪談めいて言えばもっと怖かったかなと思ったのでした。
谷崎の文章はさらに続きます。
 「四日目までは道の嶮しさも苦しさも「なあに」という気で押し通してしまったが、ほんとうに参ったのはあの三の公谷へ這入った時であった。尤も彼処へかかる前から「あの谷はえらい処です」とか「へえ、旦那は三の公へいらっしゃるんですか」とか、たびたび人にいわれたので、私も予め覚悟はしていた。それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話してもらって明くる日の朝早く立った。 (中略)  私は午後一時頃に八幡平の小屋に行き着き、弁当箱を開きながらそれらの伝説を手帳に控えた。八幡平から隠し平までは往復更に三里弱であったが、この路はかえって朝の路より歩きよかった。しかしいかに南朝の宮方が人目を避けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎる。「逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあわせてぞすむ」という北山宮の御歌は、まさか彼処(あそこ)でお詠みになったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説の地ではないであろうか。
その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めてもらって、兎の肉を御馳走になったりした。・・・」
 谷崎は五色温泉から三之公川を遡上し始めるところまででかなりへつりや渡渉に手こずっています。逆に谷崎が上に比べるとはるかに楽だったという明神谷にそったあの垂直に近い岩壁をへつっていく登山道というか、参道にはびっくりしました。そして、美しい!とひさしぶりに思えた「明神滝」は見たけれども、肝心の「べろべど岩」や「御前申すの岩」(谷崎はその言い伝えを「吉野葛」で記述しています。)など今でもあるそうなので、また、調べに行きたいと思っています。
 そんな中世日本歴史の根本でありながら捨てられていった「歴史」を振りかえさせてくれた今回の「ファミリーキャンプ」。子供たちがいたら本気で泣いたかもしれない「怖い」ところやったんですね。みなさん、すばらしいキャンプ・ライフ体験させて貰って感謝しています。よく分からないのですが、このキャンプ参加を終了したらば、次には9−10月に例会やれ!ということになりました?!ただ、もしあのヒルたちをいとおしいと思う方がありましたら、例会とは別に調べものもありますのでぜひお声掛けください。ヒルたちに献血しにいきませんか?


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