京都比良山岳会
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[No.2881] 関西百名山シリーズNo.8 賤ヶ岳


シリーズNo.8の企画は、足ながツーリスト本領を発揮して北陸本線に運転された"SL北びわこ号"に乗って賤ヶ岳に登るツアーを計画した。ほんのハイキングのつもりが、道が失われ思わぬヤブ漕ぎを強いられるなどのハプニングもあり賤ヶ岳に達せず手前で下山する別働隊が出るなど無認可ツーリストの行程管理の甘さが露呈してしまった。
【日程】2008年4月29日(祝)
【参加者】16名
【行程】京都ST9:00―米原ST9:53-10:09―(SL北びわこ1号)―木ノ本ST10:52-11:12〜田上山11:57-12:03〜呉枯ノ峰13:24-28〜大箕山14:15-23〜観音堂登山口15:35〜江戸三角点15:49〜岩崎山15:54〜大岩山16:06-11〜標高349m地点16:46〜賤ヶ岳16:53-17:13〜余呉湖荘17:35-38〜余呉ST18:14-19:10〜京都ST20:47
【歩行データ】歩行17.6q 7:02 延登高 969m 延下降 951m 6座登頂


近畿地方からSLがなくなったのは確か昭和48年だったと思う。その後山口線で定期運転が始まったのを最初に、あちこちでSL列車が運転されている。この "SL北びわこ号"はC56型蒸気機関車が牽引する5両編成の全車指定席の普通列車で米原〜木ノ本間を季節ごとに運転している。列車は沿線の人々の好奇の視線に見送られて5分ほど遅れて木ノ本駅に到着した。流石に我がメンバーも即席の鉄道ファンになって先頭車に、大変な人だかりの中、写真を撮って漸く駅を出た。
登山口は意冨布良神社(おほふらじんじゃ)の境内で建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀った立派な神社だ。田上山(330m)は城跡で空堀や土盛りの遺構が明瞭に判断できる。賤ヶ岳の戦いの際、羽柴秀長が陣を構えた山頂付近にはチゴユリが可憐に咲き、北尾根を進むとドウダンツツジやイカリソウを見つけた。時刻は既に12時20分、行程の9分の1ほどしか歩いていないが、昼は昼、北陸道賤ヶ岳サービスエリアを見下ろす稜線上でリーダーが昼食休憩を宣言。周りには花の密度の高い濃いピンクのイワカガミが群落を成していた。
赤川の谷の向うに呉枯ノ峰は聳えている。右手の赤川が収束してくると稜線に乗り上がる。縦走路の分岐を右に折れ呉枯ノ峰(532m)へと進む。山名と同じ1等三角点が置かれているが展望はない。この山「くれこのみね」あるいは「くれかれのみね」と読ませているがどうも前者に根拠があるようだ。山頂付近で濃い紫色のヒメスミレを見て、四方さんは天麩羅にするとコシアブラを袋に一杯お土産にしていた。 一行が菅山寺分岐に達するとツアコンは大箕山(482m)の4等三角点「中之郷」探検のオプショナルツアーを募集した。S方、K西、K川、O野、F澤の各氏が応募し本隊より先発した。ヤブに突入しそれらしいピークに達し探し回るが三角点は残念ながら発見することはできなかった。11年前の現況報告では「正常」とされていたので間違いなくあるはずなのだが・・・
諦めて引き返そうとするとS方さんの携帯が鳴り本隊は道に迷い停止中とのこと林道のNo.63の電柱を目指して急ぎ足に合流した。どうも2.5万図の道は既に失われてしまったようで何処にも下り口は無い。方向違いを承知の上で送電巡視路に入り、下るつもりだった谷筋の道の北側の尾根を下る。標高310mで送電鉄塔に達した。しかしその下の道は、道形は明瞭だが殆ど使われていないようでヤブが被っている。他に道はなく藪に突入し尾根を下る。やがて北側の谷に回り込み谷底に近づくと林業の作業道らしきものに合流し後は快適な登山道となり、北陸道の高架をくぐり下余呉の集落に入った。
観音堂登山口で時刻は15時半を過ぎ、足を引っ張るからと別行動を考え始めた人たちをいざという時は木ノ本へのエスケープもあるからと皆で賤ヶ岳ハイキングコースに入った。本来この辺りからミッション1「4等三角点『江戸』を探す」をするつもりだったが時間が押しているので省略しツアコンだけが確認に行った。ここもヤブ漕ぎで達成を危惧したが見事発見でき一安心、証拠の写真を撮ってミッションを終えた。
高山右近が陣を敷いた砦のあった岩崎山は何の表示も無く判然としない。賤ヶ岳の戦いの折、高山右近は柴田勝家へ寝返りを画策していたようで戦意が無く、佐久間盛政が隣の大岩山砦の中川清秀を攻めた際、援軍も出さず、田上山の羽柴秀長の元に逃げてしまった。秀長は温厚な性格の人だったので咎めもしなかったようだが、本来敵前逃亡の重罪に当たるだろう。大岩山(270m)山頂には孤軍奮闘の末玉砕した中川清秀の墓があり激戦の跡が偲ばれる。猿ヶ馬場や首洗の池など戦いの名残を地名に留めている。
349m標高点では木ノ本の一ノ宮へ下る道が分岐している。時刻は16時45分、残存体力を考慮しリーダーを含む4人が賤ヶ岳を目前にしてエスケープすることになった。S方さんは賤ヶ岳に一旦行って4人を追うと言うことに話しがまとまり、11人となった本隊は予定通り賤ヶ岳を目指した。流石に最後は急登でボッカ訓練の網さんは一寸辛そうだった。
賤ヶ岳(421m)山頂は3等三角点「賤ヶ岳」が置かれ展望が開ける。琵琶湖、余呉湖が一望できるが霞んで比良山系は全く見えない。東屋には自動販売機もあり近くまでロープウェイが来る観光地であることを思い知らされる。ただしロープウェイは17時が最終で、この時間の山頂は至って静か。時間が押しているので、大急ぎで、ミッション2「横山岳・七七頭ヶ岳を山座同定する」を行った。霞の中だったが辛うじて見極めることができた。ツアコンが賤ヶ岳の戦いの布陣状況を案内し、元来た道を引き返すS方さんと分かれ、本隊10人はそそくさと山頂を後にした。
飯浦(はんのうら)切通しから余呉湖畔の余呉湖荘に下り余呉駅からの電車の時刻を確認すると18:10発の新快速がある。その後は1時間後、できれば乗りたいものだがあと30分、3キロ余りの距離があり一寸厳しい、それでもできることならとK西博臨時リーダーを先頭に急ぎ足で歩く。静かな湖畔はヤエザクラが満開、西側の山端への落陽が美しい時間なのだが、もう景色を楽しむ余裕はない。駅が見えてきた。もう少しだと言う、その時無常にも新快速は定刻にやってきた。そして一行が駅に着いたのは4分後の18:14、残念だ。ビールでも買えたら待ち時間の無聊が慰められただろうが、無人の余呉駅にはソフトドリンクの自販機しかなかった。
別働隊は本隊が乗れなかった新快速に木ノ本から乗車することができツアーは再び合流することなく解散となり、本隊のうち5名はこれも予定通り京都駅前"酔心"で反省会まで残った。
《山紀行643》

【感想】8期 H.K.
〜湖北雑感〜
湖北の世界は魅惑的です。象徴とも思える「余呉」の湖面は波一つ無く静まりかえっていますが、「余呉導水」と「飯浦隧道」により、絶えず湖水は入れ替えがされています。 賤が岳から見る北の山は眠っているかのような静かさが感じられますが、余呉湖と同様、歴史は古く、人間の営みが繰り返されています。青地山には小さな古墳が無数に残され、人間の営みの古さが知れます。湖北の山や地名に、伊吹(たたら製鉄の息吹)、金糞、金屋等があります。このことは製鉄技術を持った渡来人が湖北に住んでいたことを物語っています。
海津小野神社周辺には小野氏が、西浜(粟柄越の終着駅で古く栄えた商業地域)周辺には伊吹氏等の渡来人が住んでいたと言われています。こうした鐵を背景に出現したのが継体天皇です。継体天皇は第26代の天皇(在位西暦507〜531年)ですが、その出自が謎とされています。古事記では湖北の高島、日本書紀では越前と記述されています。
継体天皇の父親である彦主人王(ひこうしのおおきみ)の御陵が高島の田中神社の近くに残され、これが有力な湖北説となっています。そこには大小四つの古墳が眠っていました。
湖北は琵琶湖と日本海に挟まれた地域です。一番短い所は直線で17kmと言われています。人間社会が営まれると交易が始まります。奈良、京都、大津に都が置かれ、交易の中心です。太平洋側の物資は淀川経由で、日本海側は琵琶湖経由で都に物資が運ばれます。
琵琶湖の北にある西浜、海津、塩津等は物資の積出港です。これらの湊へ、若狭や越前から幾つもの街道がありました。粟柄越(赤坂街道・若狭河原〜西浜)、万治越(小荒路〜黒山)、発知越(七里半越・敦賀〜海津)、九里半越(小浜〜海津)、深坂越(敦賀〜塩津)、近江越(倉見〜酒波)、越前からは椿越(北国街道)、木の芽越、又それら街道を結ぶ道として柳瀬街道等があり、数年かけて、これらの路を歩きました。関所や荷駄受所の跡や、荷駄を巡っての紛争話が残っていました。
これらの中で深坂越の運河開削には驚きました。秀吉を始め、江戸〜明治時代にかけて何人かが幕府等に開削申請をしていますが、そこを歩き、それらの記録に目を通すと「男の浪漫」を感じ、驚愕と感動の衝撃を受けました。それでも敦賀〜疋田(深坂の山の手前)までは運河が造られ、その後が現在も残っていました。
湖北周辺は、日本の主だった戦争のあった所でもあります。古代には恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱や壬申の乱が乙女ケ池周辺であり、その後は信長、秀吉、家康が関係する戦争です。近江は源氏武士の国です。源頼朝が鎌倉で挙兵した時、近江源氏の佐々木秀義はいち早く駆けつけ、勇猛誇った働きをして頼朝の篤い信任を得ました。秀義は頼朝から17か国の守護職を得、近江の国も保障されました。秀義の数代後、近江の国は、重綱(大原祖・湖北)、高信(高島祖・湖西)、泰綱(六角祖・湖東から湖南)、氏信(京極祖・湖東の一部)の四つに分けられ、一番力を誇ったのは佐々木六角氏となりました。更に湖西は「高島七頭」と呼ばれる者に分かれ、四氏と七頭、それぞれが時の戦争勢力と組んだことや、又主要街道の要地でもあったために、近江は幾多の戦場となってしまいました。
山城跡も、高島七頭の田屋城、井伊城、清水山城、田中城、打下城、姉川決戦の小谷城、虎御前山城、中島城、丁野山城、山本山城、長比城、賤が岳合戦の賤が岳城、田上山城、玄番尾城等々が沢山残され、大半は訪れましたが、幾つか残っています。玄番尾城(前田利家拠城)は国の史跡となっています。
長年に渡って湖北の多くの山を登り、湖北を放浪しています。雨森ほうしゅう庵、石田三成の集落、鉄砲の国友、在原業平の在原集落、蓮如の布教、高月の観音像、己高山や大吉寺山の廃寺跡、等々、湖北も歴史の集積された地域です。
歩いて沢山の物を見ていますので、詳細に紹介したいことが沢山あります。書き出したら長くなってしまい申し訳ございませんでした。

【感想】25期 T.S.
今回の例会は、SL北びわこ号に乗ると言う目玉で、目的の半分は終わったように思います。と言っても客車は、現行の車両だから、煙や汽笛の音ゆっくりとしたスピード、窓の外のカメラマンや手を振る人の姿で、実感できました。幼児だったときに、二条駅から保津峡駅まで乗った蒸気機関車の記憶が蘇りました。
到着時刻11時から、17Kmの行程は少々ハードでした。田上山から、下余呉に降りてきた時は、もう登りたくない気分でした。でも目的の山を登らずして帰るとも、言い出せず、登って行きました。
やっとの事で賤ヶ岳に着いたのが17時前で、余呉湖まで下った時には、電車の時間に間に合わないだろうと、思いながらも必死で道路を歩いて駅が見えてきたと思ったら、無情にも電車は出発しました。それでもペースが落ちず、駅に着いたときは、足がガタガタでした。
花は、チゴユリ・イカリソウ・イワカガミ・ショウジョウバカマなどが、いたるところに咲いており、今度見た時は間違わないだろうと、思いました。余呉湖畔に黄色い花がいっぱい咲いていました。図鑑で調べると、サワオグルマと判りました。

【感想】48期 Y.K.
他に2つとない面白い山行だった。コース設定も面白かったが何よりびっくりしたのが、序章で時間を食い観音堂着が15時半だったにも関わらず全員で余呉ハイキングコースに登ったこと! 以前より当会はご年配方も揃って健脚ばかりと感じていまたが、改めてその通りだと実感した。私などは7分丈パンツでオプションコースのヤブに突入、存分に戯れていささか疲れ気味だったので、駅に向かいビールでも・・・と内心期待していたものだったが。賤ヶ岳からの余呉湖・琵琶湖の夕照りに心の萎えも疲れもすっかり洗われてしまった。
 ハイキングコースといえど賤ヶ岳は標高421m。太古の昔にこの地を駆けた甲冑音は今はもうない。現代の平和を思うと同時に、平和に見える現代を思うと、太古はある意味良き時代だったのかもしれない。 

【感想】50期 J.O.
卒業旅行と言えば、今では海外だろうか。賤ヶ岳は、貧乏学生だった私の卒業旅行先だ。学生時代、琵琶湖の周囲をよく歩いた。卒業にあたり琵琶湖に別れを告げに行ったのだ。友人と二人。木ノ本駅から賤ヶ岳へ登り、琵琶湖を眺め、余呉湖を一周した。
四半世紀が過ぎ、再び賤ヶ岳に登る機会を得た。総勢16名の皆さんと、特別仕立てのSL北びわこ号で木ノ本へ。初めて乗るSLのボーッという汽笛。スス混じりの煙はお香のような柔らかい香りがした。呉枯ノ峰・菅山寺分岐・猿ヶ馬場と余呉湖の東をぐるりと巡る。
白いチゴユリ・薄紅のショウジョウバカマ・濃い桃イワカガミ・淡い紫イカリソウ。群れ咲く花達。おまけは大箕山の大藪漕ぎ。夕暮れ近づく賤ヶ岳山頂から琵琶湖を眺めた。背中のザックは15kgだった。22歳の時に比べ、何と豊かな山行だろう。
人生は山あり谷あり花あり藪あり歩荷あり? かな。

【感想】50期 T.A.
初夏に近い日差しの中、鉄道ファンの熱い視線を浴び時折響く汽笛に感動し、車窓に流れ込む煙にむせながら、しばしSLの旅を楽しみました。沿線の人たちは思いがけないSLの登場に皆驚いている様子。その様子を見てうらやましく思う自分はやはりアマノジャクなのでしょうか?当日はGWの春山山行の為の歩荷を個人的に行うことにしており、膨れ上がったザックが一寸恥ずかしくもありましたが歩き始めるとそんな余裕も無く、皆に付いて行くのがやっとという状態となりました。救いはあまりの参加者の多さからグループ分けが出来たことで比較的マイペースで歩けたことでしょうか。
とはいえH史さんのミッションにはほとんど対応出来ておりませんが・・。「今、どこにいるかわかるか?」との問いに「もう、遭難しています。」と答えているようでは失格ですね。次回はもう少し真剣にチャレンジします。賤ケ岳からの下りは、正確には下ってから駅までの余呉湖沿いの歩きは電車に乗り遅れまいと必死の歩き。先頭集団だけなら走ってでも間に合っただろうに最後尾からフラフラと付いていくしかなかった私のために一時間もビールも無い、人もいない駅で待つ羽目になってしまった皆様、申し訳ございません。最後のひと頑張りが利くように、この夏鍛え直します。ということで、ほとんど山に関する感想が無いのが私の例会感想でして、送ってもらったメールの写真を眺め「あぁ、この前行ったのはこんなところだったんだ。」と認識する始末。まるで夢遊病者の山行です。夢見心地の山行とはいかないまでもせめて悪夢の山行にならないように気をつけヨ。

【感想】K.T. (体験山行)
二度目の体験山行でしたが、今回も楽しく歩かせていただきありがとうございました。SL企画ということで、お子様たちに混じって私も童心でした。稚児百合や岩鏡など春の小さなお花にもいっぱい出会えて嬉しかったです。コシアブラやタカノツメなどという美味な植物も教えていただきいつかは!(食べるぞ〜)と決意いたしました。
呉枯ノ峰に登り、一度村落に降りたのちに再び賤ヶ岳へ、というコースでしたがみなさま走り出さんばかりで、お元気でたのもしかったです。余呉湖はすっきりと晴れ、山頂からの水面は傾く日を受け、よい景色でしたね!
ぼちぼち参加していこうと思います。これからもよろしくお願いします。

【リーダー感想】6期 H.K.
京都駅から胸をときめかしSLに乗車。
11時 木之本駅着。写真撮影の親子連れが沢山。その人達に交じり我々のメンバーも写真撮影に加わる。駅から地蔵坂の旧町中を進み意冨布良神社に。神社にて簡単な自己紹介総勢16名の大所帯。
11時30分 田上山に向かう。新緑のシャワーを浴びながら緩やかなしっかりした道を登る。所々倒木があり上をまたいだりぐったり。
11時55分 田上山城跡。表示板あり。所々土塁があったであろうことが分かる。チゴユリ、イカリ草、イワカガミなどの花々が心を慰めてくれる。コシアブラもどきはたくさんあるのですが、本物にはお目にかかれません。明るい開けたところで昼食をとる。下方には木之元のサービスエリアも見える。「これから先が長いぞう」 との一声で早々に出発。
12時40分
13時25分 呉枯の峰 1等三角点。全員で記念撮影。
13時50分 菅山寺分岐。ここで二手に分かれ、ピーク( ? )を目指すチームと一般コースとに分かれた。ものの途中から地図上の道を見つけることができなくなり、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。かなりのロス時間発生。ピーク組と合流。相談の結果スキー場への舗装道路脇の電柱ナンバー63の所から見えている道らしきところを進む。この道は途中で途切れてしまう。後はヤブコギとなる。
15時10分 ヤブコギ終了。道に出ることができる。ここより10分くらいで名神をくぐる。村の中を通り
15時35分 賤ヶ岳登山口。ここよりしっかりした登り道。しっかりと汗をかき高度をかせぐ。(2組の下山者に会う)
16時25分 中川清秀の墓で小休止。広場になっていて、ベンチもあり休憩にはもってこいの場所である。このあたりから道幅は今までより狭くなっている。雑木林と植林された道をたどる。猿ケ馬場も過ぎて349m地点。
17時10分 賤ヶ岳まで900メートル表示のところで、4名頂上をあきらめる。後の予定行動を思えばここにて時間切れ。残念。私たち4人 S方(M)さんが頂上まで行き私たちと同コースを下山すると約束して他のメンバーと別れる。道はしっかりしているが踏み跡はない。余り利用されてないようだ。落葉の積もった歩きやすい道を行けば2m位の用水路に出る。用水路の向こう側は金網が張り巡らされている。橋を渡り金網の扉を開き畑の中に出る。田居と黒田の部落の中間点あたりに出る。後は木之本駅へ。
17時50分 木之本駅到着。大休止。S方(M)さんと合流。予定道理の電車で、先に帰宅の途に着きました。皆様と一緒に行動できなかった事と賤ヶ岳に登れなかったことが非常に残念でした。

私の感想、反省
名ばかりリーダでも無理
コースの事前勉強をしていない。(やぶこぎ、コースの長いこと)色々考えさせられました。皆さんには迷惑と心配をおかけしましたがこれからも山へは行きたいです。特に関西百名山。


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